4年

 

大学の4年が終わった。学会でベルリンにいたから卒業式には出られなかった。モラトリアムと揶揄されるような大学生らしさに欠けていたのだから尚更実感がない。この4年を喩えるとすれば、教室の片隅で音楽を聴いている時間そのものだった。

 

初めの数年は他人に縋っていたし、拠り所を探していた。次第に自分との非対称性が受け入れられなくなると、排他的になって独りになった。切った縁もあれば切られた縁もある。眼鏡はほとんどかけなかったし、ヘッドホンは離さなかった。音楽だけが救いだと言い聞かせて。現実はまともな視力と聴力で受容できるほど輝いてなかった。

 

それでも大学の環境には満足していた。最後の2年は友人に恵まれたし、この先5年間は彼らと共にするのだと思う。けれど彼らは競争相手でもあって、晩飯に誘って研究の話をするぐらいの距離感が丁度よかった。だからこそプライベートは共有できなかったし、するつもりもなかった。

 

影響を受けたことも多分にある。長髪にしたこと、ラジオを聴くようになったこと。薦められた音楽に救われた時期もあった。関心をもった人たちに限って疎遠になってしまった。

 

それは人との関わりがもつ刹那性に気づいてなかったから。関係は時間に対して一様ではなくて、どこかにピークがある。その機会を逸すれば、それ以前の単調な関係のまま、あるいはそこで終わってしまう。一度逃せばもうやってこない。期待に添えない人としての烙印を押されてしまうから。

 

腹のうちの全てを明かすことができる他人をずっと探している。けど「他人に開示できない部分を秘めている」というのは気取りでしかなくて、実際は語らい合うほどの深さなんてありはしない。否定する必要もなければ、否定もされない、そういう対称性を求めているに過ぎない。

 

非対称性に無自覚、あるいは無関心でいられれば良いのだけど、どうやらそのようにはできていないらしい。裏返せば、自己開示できる他人との稀有な出会いを喜ぶ余地があるのだから、もう少し希望をもっていようと思う。